たまには突っ込んでみるか・・・

PCWatchを眺めていたら、コラムでまたよくわからんことを言っている。
タイトルは『記録と記憶と、時々、解像度』だ。
(この人の記事は突っ込みどころが多くないか?)


最近のデジカメが1000万画素になったが、記録としてそれで十分かというコラムである(違うのか?)。
山根一眞氏の公演でQV-10で撮った写真について『今、手元に残った画像は記録としての価値がないと残念がる。』と語ったことを引き合いにだしている。
当時あれほど「キレイ」に思えたものが現在ではどうしようもないデータになったということらしい。
やたら解像度(画素数)にこだわった文面であるが、映像(画像)の価値というのは、その品質(画素数、解像度)となんの因果関係もない。
そりゃ「キレイ」に記録できればそれに越したことは無いが、基本的に「価値」を決めるのはそれを受け取る側である。
実際、自分もQV-10のデータはまだHDDにあるが、「記録」や「記憶(の断片)」としては十分な価値(意味)がある(無論自分にとってだ)。
価値がないデータは元から価値が無かったと考えられるのではないか?
しかも、「キレイ」に記録するために必要なのは今より高画素数が必要であるといわんばかりの内容はどうかと思う。
そもそも「高画質(品質)」と「高画素数」は正比例しないことはわかって書いてるんだろうか?
こんな短絡的なハードウェアスペック至上論を展開されると、デジカメメーカーの回し者に見えてしまう。
(光学系を全く語らずにデジカメの高画素数の意味を語るのは無理があると思う)


現在のWEBページにも文句を言っているがこれはまぁどうでもいい。
高解像度モニタで見るWEBページで『画像と文字のサイズのバランスがガタガタに崩れてしまう』のがお気に召さないようだが、具体的な方法などの提言があるわけでなく、タイトルともどう関係するかもわからない内容だ(解像度つながりだけ?)。


結びの文でこう言っている。
『50年前に撮影した現像済みのネガフィルムを、今、プリントすれば、まるで昨日撮影したような質感が得られる。果たして、ぼくらは、数十年先の未来に、同じような感動を得られるのだろうか。デジタルだからといって、それをあきらめてはならない。』
いや、プリントする内容によっては感動は得られる。
質感だってスナップサイズに印刷するのであれば、現行のデジカメが50年前の家庭用カメラ(ってあったっけ?)と遜色があるとは思えない。
で、『それをあきらめてはならない』というのは誰にいってるのだ?
メーカーの開発サイドに対するものであれば、あきらめているハズがないので、一般ユーザーに言ってるように見えるが、一体このユーザーたちにどうしろといっているのだろう?


謎が多いコラムである。


※『』内は全て原文からの引用